『ジャッリカットゥ 牛の怒り』の登場人物
本作は群像劇であり、特に主人公が設定されているわけではありません。しかも男はみんなヒゲ面で同じような顔に見え、視点も次々に変わるため誰が誰やら分かりにくいのです。そこで主要な人物をまとめてみました。特にアントニはほぼ主役級の扱いなので、彼に注意して鑑賞すれば話の筋が追い易いです。
アントニ
ヴァルキの肉屋に勤める青年。
屠殺に失敗し牛を逃がしてしまった張本人である。
ヴァルキの妹ソフィに惚れているが、ソフィはアントニのことを嫌っている様子。
クッタッチャンとは恋敵でもあり、彼を密告したことで犬猿の仲になっている。
勤務態度は問題ないように見えるが、今回の騒動では次第にエゴをむき出しにしていく。
ヴァルキ
村では繁盛している肉屋の2代目店主。
先代である父は、逃げた牛を追って井戸に落ち死んだ。
商売は軌道に乗っており、彼を評価する者も多いが、快く思っていない者もいる。
彼が直接ミスをしたわけではないが、今回の騒動の責任を負うべき立場であることは間違いない。しかしながら、悪びれるどころか、むしろ開き直った態度をとっているし、どこか他人事のようでもある。
クッタッチャン
以前はヴァルキの肉屋で働いており、アントニの先輩にあたるが、投獄されたことにより村を離れていた。
今回、その腕っぷしを買われて牛の捕獲の助っ人として招聘される。強いうえに猟銃を持つ彼に、村人は多大な期待を寄せている。自分を密告したアントニが許せず、何かと彼に突っかかる。見るからにDQN。
ソフィ
ヴァルキの妹。
かつてはクッタッチャンに惚れていた。
やたらと色目を使ってくるアントニのことを露骨にウザがっている。中学生の頃から教師と性的関係にあったり男の噂が絶えず、村人からはすっかりビッチ認定されている。
基本、話の本筋には絡まない。
兄貴
兄貴と呼ばれているが、氏名は不詳。
初登場時はなぜか戸外で寝ていた。
本作のスチル写真にも使われまくっているし、映画序盤では目立つ風貌で悪態をつきまくり、この物語の中心人物であるかのように思わせたが、実は単なるモブに過ぎなかった。
クリアッチャン・・・・ゴム農園を経営する富豪。娘の婚約式を明日に控え、ヴァルキに大量の牛肉を注文していたが、その肉となるはずの牛が逃亡し、焦っている。昼間からこそこそ酒を飲む描写がリアル。富豪なだけあって、食には相当なこだわりが感じられる。
神父・・・・村にあるキリスト教会の神父。聖職者らしく、法に則り牛の対処を警察や行政に申請する。遠路はるばる地方長官のところまで直訴に行ったが、当然のごとくそんな行為はクソの役にも立たなかった。役所が動かないのは世界共通である。
警部補・・・・新婚でありながら、くだらないことで妻を殴るDVクズ男。当初、村の騒動には全くやる気がないように見えたが、なんだかんだ言いつつも警察の仕事はそれなりにこなしていた。
『ジャッリカットゥ 牛の怒り』ネタバレあらすじ
牛の脱走
南インド、ケーララ州、ジャングルの奥地のとある村では、人々の一日は日の出より前に始まります。
ヴァルキの経営する肉屋は、その日の未明より牛を屠殺して新鮮な肉を売ることで繁盛していました。
店の従業員のアントニは懸命に働きますが、ヴァルキにはどやされてばかり。
さらにヴァルキの妹ソフィに色目を使うも、いつもつれない態度をとられてしまいます。
ある日、アントニがいつものように牛を屠殺しようとすると、ミスによって牛が逃げ出してしまいました。
猛烈な勢いで疾走する牛はそのまま焚火に突っ込み、近くにあった干し草の山が火事になってしまいます。
村民は総出で消火活動と牛の捜索にあたりました。
ヴァルキも助けを借りて牛を追いますが、牛の被害にあった人々からなじられ、場は険悪な空気になります。
牛は行く先々で被害をもたらしました。
薬用ハーブの幼木は牛になぎ倒された挙句、追う人々に踏み荒らされました。
教会のタピオカ畑も牛によってメチャクチャです。
ついには警察が出動する事態となりました。
ところが、牛の射殺には法的規制や諸々の手続きがあり、公権力の介入は全く期待できません。
警察の出来ることといったら、せいぜい村中を回って危険を知らせることぐらいでした。
もはや自分たちで解決するほかありません。
しかし、男たちが寄ってたかって牛を捕獲しようとしても、その圧倒的な力に翻弄されるばかりです。
牛は今度は銀行に押し入り、内部を散々に破壊していきました。
一方、娘の婚約式を明日に控えたゴム農園の富豪クリアッチャン宅は、準備に大忙しです。
招待客にふるまうために大量の牛肉をヴァルキの店に注文していましたが、まさかその牛が逃げ出しているとは夢にも思いませんでした。
悪いことに、プーマーラ村の連中がやって来て、酒を飲んで騒ぎ始めました。
そして、彼らも面白半分に「牛を捕まえる」と言うのです。
悪化するばかりの状況を見かねて、村人はこの状態を打開できそうな人物=罪を犯し村を追われた男クッタッチャンを呼ぶことにしました。
訳ありの男
クッタッチャンはかつてヴァルキの店で働いていました。
アントニにとっては先輩でしたが、ソフィはクッタッチャンに好意を寄せていて、アントニには邪魔な存在でもありました。
ある時、教会の白檀の木が何者かによって盗まれる事件が起きます。
それがクッタッチャンの犯行であると気付いたアントニはここぞとばかりに彼を密告します。
アジトに踏み込まれたクッタッチャンは、大麻も栽培していたことが発覚し、しょっ引かれるのでした。
こうして二人の間には深い溝が生じたのです。
猟銃を携えてクッタッチャンがやって来ました。
よほど人望があるのか、多くの者が彼を称え歓声を上げています。
多くの取り巻きができ、調子に乗ったクッタッチャンは観衆の前で猟銃を構え力を誇示します。
アントニはそれが気に入らず喰ってかかり、早くもひと悶着起きてしまいました。
事態は好転せずとも時間だけは過ぎていきます。
日は沈み、暗闇が訪れても牛の捕獲は続けねばなりません。
村人はより数を増し、夜を徹して捜索がおこなわれます。
だが、相変わらず牛を見つけても簡単に逃げられ、誰も成果を収めることはできませんでした。
そんな中、アントニは運良く牛が井戸に落ちているところを発見します。
その頃、牛の騒動を知ったクリアッチャンは、このまま肉が手に入らないのではないかと気が気でありません。
そこで牛の代わりに鶏肉を用意しようと知り合いの家に頼みにいきますが、それを不倫現場だと勘違いされ、さんざんな目に遭います。
しかも、明日に婚約式を控えた当の娘は親が決めた結婚に納得しておらず、本当に好きな男と駆け落ちしようとするも、事故を起こして断念するのでした。
混沌
牛は自分から井戸に落ちてしまっただけなのですが、それを見つけたアントニは「自分が罠にかけたんだ」と声高に自分の手柄を主張します。
ヴァルキやクッタッチャンは今のうちに牛を射殺すべきだと忠告しますが、アントニは「自分の獲物だから」と言ってそれを否定し、牛を引き上げるための作業を指揮し始めました。
滑車を使ってアントニ自らが降り、果たして牛の引き上げは成功するかに見えました。
しかし、折りからの雨が人々の縄を握る手を滑らせ、牛が足場に乗った途端、またしても突破を許してしまいます。
おまけに、その衝撃で村人の一人が井戸に落ち、とうとう死者が出てしまいました。
人々は段々と「自分こそが牛を捕獲する」として譲らず、事態は混迷の度合いを深めていきます。
警察が仲裁に入るも、興奮した村人たちは暴徒と化し、警察車両も放火されました。
もはや牛を捕まえない限り、この混乱は収まりません。
人々は各々が武器を持ち、再び牛の捜索を再開しました。
様々な罠をしかけ、どんなに大人数で包囲しても、やはり牛の突進には誰もかないません。
負傷者だけがいたずらに増えていきました。
そしてその騒動に乗じて、クッタッチャンはアントニに襲いかかります。
クッタッチャンの狙いは最初から自分を密告したアントニに復讐することにあり、牛の捕獲は口実に過ぎなかったのです。
咆哮を上げ、二人は野獣のように戦いました。
そこに突然、牛が乱入してきます。
クッタッチャンはとっさに牛を押し止めました。
牛を相手に両手が塞がった敵を助けるほど、アントニはお人好しではありません。
無防備なクッタッチャンにアントニは何度もナイフを突き立てました。
何食わぬ顔で群衆の許に戻ったアントニは、先頭に立って牛を追いかけます。
やがて、牛は泥沼にはまって身動きとれなくなっているところをアントニに発見されます。
一番乗りを果たしたアントニは牛にナイフを刺して仕留め、牛は自分のものだと主張しました。
しかし、興奮した群衆は誰も言うことを聞かず、その場にいる者たちで殺し合いが始まります。
そうしている間にも牛を求める群衆は増え続け、雪崩を打って押し寄せてきます。
もはやアントニも、戦っていた相手も、誰も彼もが人の山に押しつぶされ、そこには阿鼻叫喚の地獄絵図が繰り広げられるのでした…
『ジャッリカットゥ 牛の怒り』考察
考察①「ジャッリカットゥ」の意味
本作のタイトルである「ジャッリカットゥ」とは南インドでおこなわれている伝統的な牛追い競技のことです。
参加者は競技場内に放たれた牛のコブにすがりつき、押さえ込んだ者が勝者となります。
もちろん、牛は暴れて人間を振りほどこうとするので危険ですし、牛の側が傷つくこともあります。
そのため問題となり一時期禁止されていたのですが、反対の声も多く、2017年に再開されました。
同様の行事にスペインの牛追い祭り(サン・フェルミン祭)があります。
監督はこのタイトルについて、牛を追いかける内容が類似しているから直感的につけただけで、深い意味はないことを語っています。
考察②インドはヒンドゥー教なのに牛を食べていいの?
インドには多様な宗教があるとはいえ、国民の約8割はヒンドゥー教です。
ヒンドゥー教は牛を神聖な生き物としており、殺すことも食べることも禁止しています。
ですが、本作ではヴァルキの肉屋は牛肉をメインに売っていますし、村人も皆が牛肉を食べているようでした。
これはどういうことでしょうか?
それはヴァルキの肉屋で扱っているのが水牛の肉だからです。
ヒンドゥー教で神聖視している牛の種類はコブ牛(ゼブ牛)だけなので、水牛は食べても良いのです。
また、劇中の村ではキリスト教の教会が登場しており、実際にケーララ州はキリスト教徒の多い地域でもあるそうです。村人がヒンドゥー教徒でなければ、当然牛を食べても問題はありません。
考察③牛の尿を貯めてどうするの?
ハーブの木を育てているのに牛や群衆になぎ倒され、「汚い言葉を使うな」と言いつつ自ら「このクソどもが!」とブチギレるおじさんは、登場時になぜか水甕に牛の尿を貯めていました。
これは先述の通り、ヒンドゥー教徒にとってコブ牛は神聖なので、その尿も聖水としてお浄めや健康のために飲んだりするからです。
インドではその他にも日用品や医薬品等、牛の尿の成分が使われている商品があるそうです。
考察④鉄片が銃弾の代わりになるの?
クッタッチャンは驚くことに、バケツのつるをナタで細かくぶった切って、それを猟銃に装填していました。
これはクッタッチャンの猟銃が旧式のマスケット銃だから可能な芸当です。
マスケット銃は先込め式で、銃身にライフリング(らせん状の溝)が無く滑らかです。
そのため、火薬さえあれば何でも銃弾代わりにできてしまうのです。
さすがに成形・加工されていない鉄片では威力も飛距離も精度もメチャクチャでしょうが…
『ジャッリカットゥ 牛の怒り』感想 インド映画の奥深さ恐るべし
この作品からはとてつもない熱量を感じます。それも興奮とか感動などといったポジティブなものでなく、「人間の暗部を抉ってやる」という暗い情熱を。
大ヒット作『RRR』がインド映画の表の代表なら、本作は裏の代表と言っても過言ではないでしょう。(実際、第93回アカデミー賞では国際長編映画賞のインド代表作品に選出されています。よくこれをインド映画代表にしたな…)
とにかく本作はおよそエンタメ性などとは無縁の作りで、観客を楽しませようという媚びは一切ありません。
インド映画映画お得意の歌や踊りも完全に封印されています。
ただ荒々しく、虚飾を排して人間の生(なま)の姿を、その獣性を暴き出すのです。
話の筋は全くもってシンプルです。
肉屋から逃げた牛を村人が追う。
ただ、それだけです。
普通、予備知識なしに本作を観た場合、牛が暴れて破壊の限りを尽くし、人々がそれに立ち向かう『ジョーズ』のような映画だと誰もが思うでしょう。
ところが、本作の肝は牛にはありません。(そもそも逃げた牛も予想より小さい…)
牛の逃走事件をきっかけに、村人の内側にマグマのように溜まっていた悪意が一気に噴出する様が見どころなのです。
日頃のちょっとした不満、妬み、人間関係の不和、承認欲求、独占欲…etc、そんな日常生活で生じる悪感情を人は皆、押し殺して生きています。
それを表に出していたら秩序は乱れ、社会は機能しないからです。
しかし、誰の心にもそれはある。そこを本作は突いてくるのです。
牛はいわゆるマクガフィンであり、別に豚が逃げても話は成立するし、何なら全く別の騒動でもよいわけです。
したがって、本作は必然的に人の嫌なところを描写します。
群像劇だから主人公も不在だし、人の区別もつきにくく、全体的に編集も雑であり、決して観やすい映画とは言えません。
およそ映画の定番を無視した作りに、初めて観た人は面食らうでしょう。
しかし、やがて慣れてくるとインドの片田舎に自身がとり込まれ、人々の力強い暮らしぶりや牛に翻弄される人々の滑稽さ、また牛を追う勢いに目が離せなくなります。
そして人間の醜い内面にも。
エンディングでは、太古の昔の人間が、仕留めた獲物をめぐって醜く争っているシーンが描かれました。
今回の騒動と同様の事例は、人類が発祥した瞬間から存在しているということでしょう。
ならば、人間のDNAに刻まれた不都合な真実に目を背けず、我々はしっかりと性悪説の視点に立った社会を作らねばなりません。