「海洋天堂」ネタバレあらすじ
プロローグ
静かな海に漂う一艘のボート。
乗員は父と息子のみ。
父であるワン・シンチョンは穏やかな表情のまま、自分と息子ターフーの足に重りをつけたロープを巻き付けます。
そして意を決すると二人は海に飛び込みました…
ワンの病気
その後、なぜか二人は自宅へと帰ってきます。
留守を預かっていた隣人のチャイは色々と世話を焼いてくれ、肉料理まで差し入れしてくれました。
食事しながらワンはターフーに、なぜ一緒に心中しなかったのか問い詰めます。
二人が生きて帰ってきたのは、泳ぎが得意なターフーが水中でロープを解いたからだったのです。
しかし、自閉症であるターフーはオウム返しするばかりで答えません。
翌日、ワンは何事もなかったかのように、ターフーを連れて勤務先の水族館に出勤します。
父子家庭であるため、ワンが勤務している間、ターフーは館長の計らいで水槽の中で泳がせてもらっていました。
館長の信頼も厚いワンでしたが、彼は時おり苦しそうな様子を見せます。
実は、ワンは末期の肝臓ガンで余命いくばくもない状態でした。
そのため、自分亡き後のターフーを託す場所を求め、かつてターフーの通った養護学校へ再入学のお願いをしに行くのですが、恩師のリウ校長はすでに退職した後でした。
新しいフォン校長もターフーのことを親身になって考えてくれますが、学校は制度上16歳までしか在籍することができません。
すでに21歳を迎えたターフーは全く対象外でした。
ワンは少しでもターフーが身の回りのことが自分で出来るよう、あらゆることを教えます。
自宅の鍵の開け方、卵の割り方、お金の計算や買い物の仕方…等々。
それと並行してターフーの受け入れ先を必死に探しますが、問い合わせた施設にはことごとく受け入れを拒否されてしまいました。
やがて隣人のチャイにもワンの病気のことを気付かれてしまいます。
ワンは世話焼きのチャイに負担をかけないよう病気のことは黙っていたのですが、親切な主治医がワンの留守中、彼の家へ無料で薬を届けに来たため、チャイがその対応をしたからです。
ワンの命があと僅かであること、ターフーの受け入れ先がないこと、先日二人が旅行に行くといって心中をしようとしたこと、全てを知ったチャイも二人の身を案じますが、打開策は見つかりません。
新しい居場所
一方、ターフーは水族館の敷地で興行をおこなう大道芸人一座の団員リンリンと知り合い、段々と親しくなっていきます。
リンリンは幼い時に両親に捨てられ、今は亡き祖母に育てられた孤独な女性でした。
ある日、二人が帰宅すると恩師のリウ先生が家の前で待っていました。
フォン校長がターフーのことをリウ先生に相談してくれていたのです。
リウ先生の伝手で、ターフーは新しい施設へ入所することができました。
ターフーを施設に預けた帰り道、ワンがリウ先生にふと「自閉症は独自の世界にいるから、悲しみも分からなくて済む」と諦め気味に言ったところ、リウ先生は「知ってるでしょ。彼は感情をうまく表せないだけ。」とたしなめるのでした。
ワンはすぐにそれが正しいことを思い知らされます。
その日の夜、ターフーの様子がおかしくなり自傷行為までしているため、施設から呼び出されたのです。
ワンの姿を見るとターフーは騒ぐのを止め、安堵して泣き出しました。
ターフーは平然としているように見えても、ワンとの別れはつらかったのです。
こうしてしばらくの間は、ワンも施設で共に過ごすことになりました。
教育
新しい居場所は決まりましたが、ワンに残された時間は限られています。
ワンはターフーに衣類の着脱の仕方、バスの乗り方、料理や掃除の仕方等、できる限り多くのことを教えます。
もちろん、ターフーはそれらをうまく覚えることはできません。
ワンはそんなターフーに時おり声を荒げることもありましたが、すぐに思い直し優しく根気強く接するのでした。
リンリンもまたターフーに電話を取ることを覚えさせたり、一緒にピエロのメイクをして写真を撮ったり、すっかり友人となっていました。
しかし旅芸人の一座が一か所に留まることはなく、せっかく仲良くなったリンリンも別れを告げることなく去ってしまいます。
ターフーは寂しさのあまり水族館を飛び出してしまい、やがてリンリンのピエロ姿を思い出したのか、マクドナルドのドナルドの座るベンチにもたれかかっているところを発見されました。
まだまだターフーに教えたいことがある、とワンは病魔に冒されながらも休むことなく動き続けます。
ワンは自分の死後のことを、互いに好意を持っているチャイに託し、ただ言葉なく手を握るのでした。
父さんは海亀になる
ワンは自分がいなくなった後もターフーが寂しくないよう、最後にある教えを施します。
それは、ワンが長寿である海亀となっていつまでもターフーと一緒にいる、というものでした。
そのためにワンは亀の甲羅まで自作し、死ぬ間際であり、なおかつカナヅチにも関わらず、ターフーと一緒に水槽を泳ぎます。
それを見かねた館長は溺れそうなワンを助けに入りました。
ワンの妻が水難事故で亡くなったことを知っている館長は、ワンまで同じことになりそうで心配だったのです。
しかし、ワンは妻の死が事故ではなく、ターフーの障害を受け入れられないが故の自殺だと考えていることを打ち明けます。
そして「自分なら大丈夫」、と再び水槽へと入っていくのでした。
かつて父とバスの車窓から景色を眺めたことを思い出すターフー。
今、車から外を眺める彼の傍にはワンの骨壺がありました。
ターフーは父の死を知ってか知らずか、墓地でのワンの納骨の際、悲しむ様子はなく、しかし空を見上げたり、花に触れ大地に手をかざす仕草を見せます。
水族館の館長は、ターフーのいる施設の所長に、自分もターフーの保護者となり、これからも今まで通り水族館で過ごさせることを申し出ました。
エピローグ
一人になってしまったターフーですが、彼は自分で着替えをし、卵料理を作り、バスに乗って水族館へ行きます。
そしてワンに言われた通りに掃除の仕事をこなしていきます。
ワンの教えが実を結び、ターフーは身の回りのことが出来るようになっていたのです。
そんなターフーが館内を掃除していると、リンリンと通話をした公衆電話のベルが鳴りだします。
不思議に思いながらも受話器を取るターフーに聞こえてきたのは波の音、海鳥の鳴き声…。
それは海亀となったワンからの贈りものだったのでしょうか?
「海洋天堂」感想 一人の人間としてのリー・リンチェイを見た!
これを書いている2024年の11月、世間では「Z李」なるアカウントのインフルエンサー(しかして実態は匿名・流動型犯罪グループ)逮捕のニュースが繰り返し流れておりました。
この人たちのことはこれっぽっちも知りませんでしたが、正直、こんな人たちがジェット・リーの名をもじって使用することには不快感しかありません。
ジェット・リー(いやさ、「少林寺」から観ていた世代としてはリー・リンチェイの方がしっくりくる)は、中国武術界の生ける伝説であり、世界的アクションスターであり、慈善家なのです。
その名を犯罪者が軽々しく使うなど不敬の極みなり!というようなことを思っていたら、無性に彼の映画が観たくなり、本作を鑑賞するに至りました。
あのジェット・リーが超絶アクションを封印して冴えない中年親父役を演じる、ということで期待して観たのですが、想像以上に役にドハマリしていました。
例えばこれがもしもドニー・イェン(ジェット・リーとは同い年にして北京業余体育学校の同期でもある!)だったなら、どう見ても平凡な中年男性には見えず、明らかに武人のオーラというか殺気が漲ってしまっていたと思うのですよ。
あと非凡なイケメンだし。
それがジェット・リーだと、童顔なうえに人の良さが前面に出ている顔つき故に、本当にその辺に居そうなおじさん感を醸し出しているのです!
そこに武術の達人としての面影は微塵もありませんでした。
我が子を思う父としての眼差しは、彼が何者であるかをすっかり忘れさせてしまう力を持っています。
そして、もう観る前から分かっていたことですが、やはり涙目にならずに鑑賞することは不可能でした…。
私には周りに障害のある方がいないから、障害の描写について言えることはありません。
しかし、本作によってその存在を身近に感じ、さらには親子の愛情という普遍的な題材に対し、色々と思いを巡らせるに至ったことは確かです。
それはやはり、この作品が変な脚色をせず、真面目に作り込んであるからこそです。
親は末期ガン、子は自閉症というヘビーな設定は、それこそやろうと思えば劇的なシナリオがいくつも作れたことでしょう。
邦画や韓国のドラマだったら、「さあ泣け!」と言わんばかりに涙をカツアゲしてくる展開となり、その過剰さに逆に白けてしまったに違いありません。
しかし、本作は決して奇跡は起こさず、大きな変化も訪れず、ただ日常を淡々と描写していきます。
久石譲の劇伴もたいへん美しいながら大袈裟にせず、1つ1つのシーンが受け手に自然に入ってくるように感じられました。
そもそもこの作品には、エンドロールに「平凡にして偉大なる全ての父と母に捧ぐ」とテロップが出るように、何も大病や障害を持っても頑張っている人だけが偉いわけではなく、根底には子を持つ親はあまねく尊いというメッセージが含まれています。
全ての親子にドラマがあるのだから、過剰な演出は不要なのです。
ワンとターフーにしても特別なことはせず、いま出来ることを精一杯やり、その努力が実を結んだのです。
奇跡はおこらなかったが、ワンの人柄と努力を見ていたからこそ、リウ先生も施設を斡旋したわけだし、水族館の館長も何だかんだ言いながらターフーの保護者の一人となったわけで、さらには教育があったからこそターフーも身の回りのことが出来るようになったのです。
その地味とすらいえる展開が逆に制作者の病気や障害に対する真摯な態度を物語っています。
そんな誠実な作品だからこそ、ジェット・リーもノーギャラで出演する気になったのでしょう。
彼自身も、14年間自閉症の施設でボランティア活動をしてきたシュエ・シャオルー監督の誠意に打たれて出演を決めたことを語っています。
本作の中国公開は2010年6月、作中のジェット・リーは46歳頃と思われます。(それにしては役柄のせいか随分老けて見えます)
アクションスターとして確固たる地位を築いた彼も、初老に差し掛かる時期を迎え、ヒューマンドラマ作品で市井の人の役柄を演じる意欲が湧いたというのもあるのではないでしょうか。
そして、果てしなく善人の容貌な上に実際にやっぱり善人だったジェット・リーは本作のワン役にこれ以上ない程適任でした。
そこには演技の部分を越えて、彼の善性のようなものが滲み出ているとすら感じたのです。
実際、ジェット・リーも本作について、「演技などしていなくて、心をこめて、感情をこめて一人の父親像を作り上げただけ」と語っており、やはり人間としての深みがスクリーン上でも迸ってしまっていることに感心しきりです。
これだけの実力を見せられたのですから、観客としてはジェット・リーにもちろんアクションスターの役割は求めつつも、今後は演技派としての作品出演も期待してしまいます。
ジェット・リーは現在61歳。まだまだやれるはずです!
考察 ラストシーンでターフーの受けた電話は誰からだったのか?
ターフーが海亀と泳ぐラストシーンの手前、かつてリンリンに使い方を教えてもらった水族館内の公衆電話が鳴り、ターフーが受話器を取ります。
その電話は果たして誰からかかってきたものなのでしょうか?
ここで電話の向こうの相手が何らかの言葉を発していれば容易に特定はできるのですが、監督としても想像の余地を残すために敢えてそれはしなかったと推測されます。
では、受話器からは何が聞こえてきたでしょうか?それが分かればヒントにはなるはずです。
しかし、ここで問題となるのが、水族館の公衆電話がある場所は何故か水棲動物たちの声がやたらと聞こえるという点です。
これはリンリンとの電話のシーンでも確認することが出来るのですが、この場所はとにかく静まり返っており、イルカなのかセイウチなのかペンギンなのか、動物たちの声が響きまくっています。
件のシーンでも状況は変わらず、受話器の向こうから聞こえてくる音と動物の声が混ざり合ってしまい、どちらがどちらなのか聞き分けるのが非常に困難になってしまいました。
それでも、よく注意して音を聞いていると、受話器を取った直後にBGMが流れ始め、波のさざめきとカモメのような海鳥の鳴き声が聞こえてくることが分かります。
つまり、この電話の発信者は海辺にいるということです。(ただし、この次のシーンに一瞬だけ海辺が映るので、もしかしたらBGMと海鳥の鳴き声は、次のシーンの音を映像より先にもってくる演出(俗に「ずり上げ」と呼ばれるトランジションの一種)に過ぎなかった、という可能性も無きにしもあらず。)
私は最初にこのシーンを見た時、当然リンリンがかけてきたのだろうと思ったのですが、その姿も声も登場はしませんでした。(現実的にはそれが一番可能性は高いのですが)
ならば、この電話は超自然的なものと解釈するのが適切であるように思います。
この電話の向こうには海がある、すなわちそれはワンが海亀となって海の向こうから連絡をしてきた、というのが一番素敵な解釈ではないでしょうか?